2007年04月19日

書き続ける事で、読者を維持できるのか

Pop is dead. 随分以前になるけれど、石川初さんにもらったコメント。
 僕は勝手に「ほめてもらった」という風にとらえていて、それはそれで良いのだけれど、しかし何か引っかかるものがあり、結果としてそりゃ良いことなのか悪いことなのか、ということを無意識のうちに気にしているようなこと。
ツールとしてのblogを「アクティブにしておく」ための作法について、いつも考えさせられます。
 ブログがなぜ読まれるか、というのは結構簡単なことであって、それが「常に更新されるものだから」です。更新されない、あるいは更新頻度の低いブログは読まれない。高ければ良いというものでもないでしょうが、例えば1週間に1度も更新されないブログは、あまり読まれないのではないかと思います。

 これは、僕が「無意識のうちに気にしていること」です。義務感から更新することは無いのですが、しかし更新せずにしばらく放置していると「ああ、このままでは僕のブログはアクティブでなくなってしまう」というような不安感を持つ。

 でも、繰り返しますが、そういう不安感から更新してもダメだと思うのです。義務感から書いた記事というのは自分で読み返すとひどくつまらない。自分が楽しくないから、更新意欲は低下する、それでも書き続ければブログはどんどんつまらなくなる。
 アクティブであるが故に読まれるブログを、アクティブに保つために無理をする。その結果、中身がつまらなくなれば読者は減るでしょう。
 しかし、かといって、次に書きたくなるまで「待って」いていいのか、という様な葛藤があるわけです。次に僕が書きたくなるまで、読者は「待って」くれるのか?という不安感。
 今のところ、僕はその不安感にせかされることなく、自分なりのペースで書いています。そのおかげで、好評を頂いていたブログ論は随分少なくなりましたが、日記はなんとか、スローペースではあるけれどつけている。

 と、今日珍しくブログ論めいたことを思いついたので書いてみたのですが、内容としてはひどく当たり前のものになりました。結論としては「アクセス数とか、読者の維持のためにブログをやってもなあ」という、そういう事なんですが。
 でも読んでくれる人がいると、その人のことは気になるし、読み続けて欲しい、アクセスも欲しい、そういう感情って不可避なんですよ。だから書かなくちゃ、という義務感ってのは、確かにある。それって自分の中の戦いなのですね。つまり「他人(読者)のために自分を犠牲にするか」という様な話、あるいは「アクセス(自分の欲望)のために、自分を犠牲にするか」でも良いけど。
 そうじゃないから、つまりブログは仕事じゃないから楽しい、ってのが僕の場合は強いので、僕はまだ当面は、自分のためにブログを書くのでしょう。
この記事へのコメント
ブログ更新を、なんとなく焦燥感を持った状態で継続していくのって、なんか「非・非同期」な感覚がするというか、どうもゆったりできなくてニガテです。
mixiやTwitterの流行は、ぼくが抱いてるようなこのへんのニガテ意識を解決したからなんじゃないかナーとか思います。非同期ってわかりづらい言葉だけど。
「読ませるための手間(条件)」や「読むための手間(条件)」みたいなものを劇的に減らしたのが、RSSリーダーライクなサービスなんだと思ったりします。同時性がなくてもいい、手間をかけなくても継続する、などなどなど。

なんとなくだけど、mixiが外部のRSSを読み込むリーダー機能を詰んだら、blog界隈に震撼が走る気がするのでした。
Posted by obacan at 2007年04月20日 08:51
なるほど。たしかに更新頻度は大きいですね。「ツールとしてのblog」といったとき、実は僕は更新頻度のことよりも、どっちかというと、ブログ「界」へのアンテナの張りかたとか、言及や引用やリンクの「密度」とか、そういう、ブログの「感度の表現」というか、「態度」みたいなことを思い浮かべていました。でも、考えてみたら、更新頻度が高い、ということも「感度の表現」ですね。気の向くままに好きに書いていて、それが結果的に「感度の高い」ブログを維持することになっていればそれはハッピーだと。でもモチベーションとしての「注目度」は無視できないと。そういうことですよね。
Posted by 石川初 at 2007年04月20日 17:04
■obacanさま
 語弊があるというか、ちょっと真意からずれるんですが僕はRSSリーダーって本当にすごいのか?とも思っていて、なんというかオンラインでは所詮、オフラインのような時間の流れって成立しないんじゃないか、という。言い方が難しいんですが、スポーツを録画で見る人って少ないし、雑誌を古本屋で買う人も少ない。webってそういう場所のような気がします。
 人間が生きている時間って、ある基幹はすごく時の経つのが早くて、逆に遅く感じることもあるんだけど、そうやって人が生きている間にも、webでは同じように時間が流れているわけじゃないですか。webを「世界」に置き換えても良いんだろうけど、つまり世界と個人というのは「点」でしかつながらないようなもので、ブログで世界とつながるっていうのは、その「点」を無理矢理「線」にするっていう、無茶な話なんじゃないかと。
 と、取り留めもない話になりましたが、なんか不整合を感じたりはしますね。
Posted by LSTY at 2007年04月24日 09:42
■石川初さま
 おっしゃっている通りだと思います。アクセス数にしても更新回数にしても「数」に過ぎないのです。
 それはもともと物の一面を測る尺度なんだけれど、自分の中で「数」の持つ意味が尺度を超えてしまった時、というか尺度が尺度を超えた時と言うんでしょうか、こういうと抽象的すぎますが。
 そうですね、尺度とか数というのは「物の一面」を測るだけの物なんだけれど、それしかよりどころがない場合、つまり「物の一面」だけを見て全体を想像しなければいけない場合、やはり数字に振り回されていろんな間違いを起こしてしまうのだと思うのです。
 つまり石川さんの言う「感度」とか「態度」っていうのが置き去りになってしまう感じでしょうか。
Posted by LSTY at 2007年04月24日 10:10
問題は量ではなく質なのではないかと思う。私の巡回先はブログではなく静的なHTMLのサイトばかりなので毎日更新されているところは少ない。だけれども、三十人から五十人の読者はいる。何故か。過去ログ(過去のデータ)はいつまでも楽しめるものだからです。
多分に、これから書き続けないと読まれないブログというのは廃れていくものじゃないのかと思う。逆に過去の記事が(例えば小説などのように)立派なサイトは年を経ても廃れないと感じる。
要するにね。大事なのは量よりも質なんじゃないのかと。
Posted by 吉山 at 2007年05月05日 12:27
■吉山さん
 うーん、それは正論だと思うんですが。正論が正しいとは限らない、と言ってはおかしいですが、そういう風にも思います。
 ちょっと例えが変かも知れませんが、本屋では夏目漱石の小説よりも、週刊誌の方が売れていると思うのですね。
 インターネットでは「見たい映像を見たい時に見られるサイト」っていうのがありますが、こういうメディアの力がテレビを超える事って無いような気がする(僕の想像力の問題かも知れませんが)
 実際には、「情報の質」よりも「情報が流れ、常に新しい状態にある事」の方が重視されているのではないか、と思うのです。それが「垂れ流し」であっても。
Posted by LSTY at 2007年05月07日 13:38
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