2015年08月31日

下鴨車窓「漂着」感想

Pop is dead. 最近は歌舞伎ばかり見ているので、気分を変えて現代劇も見ようと思い、昨年「木馬の鼻」を見に行ったり今年は「戯作者銘々伝」や、新演出の「マクベス」を見に行ったりした。マクベスを見て気づいたのは「現代劇というのは、答えのない芝居なんだなあ」ということで、答えや結末ではなく「示唆」を提供するのが現代劇というか、いやこれは欧米的と言うべきなのだろうか、よく分からないんだけど歌舞伎と違うなあと思った。

 つまり、見たあとですっきりしない「よくわからない」というのが正直な感想であって、古典と現代劇の違いというのではなく「娯楽劇」と「芸術としての演劇」の違いなのかも知れない。古典でも、能なんかには「よくわからない」ものが多いような気がする。

 下鴨車窓の「漂着」も、同じく「よくわからない」芝居だった。話は割と単純で、現実と虚構が交差するというモチーフもありがちだと思ったが、そのありがちなものから何を読み解けば良いのか「よくわからない」と思ったのだけど、しかし分からないことが価値なのであって、分からないことで考え続けられるというスルメ的なお得感が、こういったたぐいの芝居の本質なのかも知れない。

 ところで、この芝居の脚本家が「東日本大震災以来、人々から『物語』が忘れられている」とか言っていて、震災以前以降をどうこういうこと自体が大嫌いな私としては「ケッ」と思ったんだけど、まあ、現実的にそうなんだろうな、とも思える。でもやっぱり僕は東日本大震災以前以降で云々する人はあんまり好きじゃないね。阪神淡路大震災はどうなんだ、東京に影響なければなかったことになるのか、ケッ、とも思うし。しかし今回の芝居への評価とそれは別のようでもあるし、別ではないようでもある。

 結局、現代劇という物が「よくわからない」物である以上、主観的な「感想」というものはこのようにムニョムニョしたよく分からないものにしかならないので、ディテールの話をする。
 冒頭、登場人物が缶ビールを飲もうとする際に、缶からビールが噴出する。これはハプニングなのか演出通りなのか。その後、登場人物がそのビール缶を倒してこぼしてしまう。これもハプニングなのか演出なのか。ちょっと興味深かった。
 男がガラス瓶を割る際には大きな音がし、女が割る時には音はしない。何故だろうか。
 現実と虚構のクロスがこの芝居のカナメなんだけど、その演出のカナメになる、女の登場シーンは面白い。まあこの芝居の完全オリジナルでもないんだろうけど、前述した「物語が失われている」という作者の主張とも重なる。つまり、みんな周囲の人を人とも思わず、モノのような視線しか向けていないんじゃないか、という事なのだろう。あるいは、死体は所詮モノであって、死体になった時点で生前その人の身の上にあった物語は失われるのだ、という事も意味してるんだろう。これはなかなか面白かったですね。

 さて登場人物の劇作家の妻(女優)は、夫が脚本を書いた物語には「出演しない」と言う。しかし、劇中劇として展開される物語には出てくる。これは、飽くまでも劇作家の妄想の中の物語だから妻が出てくるのか、あるいは出演しないと言った妻が現実的にはその作品に出演したのか、だとすれば妻の意志はいつ、どのように変化したのか。
 舞台上で本火を使っている。手紙が燃えるくだりは嘘くさい。雨、用水路、海など水が主体の芝居だから、あえて火を使いたかったのだろうか。
 そういえば、舞台上では開演前からかすかに水音がしている。その水音が大きくなって芝居が始まるのは「現実と虚構(芝居)」のボーダーをにじませたかったからだろう。これもまあ、現代劇としてはありがちなんだろうけど、見ていて気持ちよかった。水音というのは純粋に気持ちいい。

 劇中劇の内容は深読みしようと思えばできるが、しかし薄っぺらい感じがした。尖閣諸島なんかの問題が念頭にあるのか、将来的に日本で「政治犯」というものが出てくるかも知れないという警句なのだろうか、よく分からないがもうちょっと説明がないと、私としては腹に落ちるものがない。浅く感じてしまう。

 役者は、劇中劇に登場する夫が良かった。常に不機嫌な役。聡明であり、慎重であり、それゆえに妻に捨てられ、逃げられる夫という役柄である。「妻に捨てられる」というモチーフも「現実に影響される虚構」から来ているのだろう。
 劇作家の男役の役者も自然で良かった。ハゲで丸顔なので親近感がある。

 私の感想は否定的に見えるかも知れないけれど、割と面白かった。娯楽作品ではなく「考えさせるための舞台芸術」としての現代劇を見たという満足感はあったけど、しかし僕は「意識高い系の鑑賞者」ではないので、こういう芝居を続けていくつも見たいとは、正直思わない。だからといってこの芝居がつまらなかったというわけでもないが。ここ数年で見た時代劇で「ファンファーレ」や「木馬の鼻」などは正直中途半端で感心しなかったのだけど、このように感想を書きたくなったのは「漂着」という芝居の力なのだろうと思う。
 「マクベス」にも感じるところはあったが、興味が湧くのは演出の構造や「シェイクスピアによる本の外」の事だったりするので、なんかそれって違うというか飛び道具的すぎだろ、と少し的外れな感想を持ったりもしたので、あえてまとめて感想を書こうという気にはならなかった。

 そういえば、カーテンコールがないのが良かった。これは非常に良かった。スタンディングオベーションなどは各自が勝手にすれば良いのだが、カーテンコールというのは観客全員に対する「一体感の強要」だと思うので、僕はカーテンコールが始まった瞬間に劇場を去るようにしている。

 芝居にしろ落語会にしろコンサートにしろ、入り口で大量のチラシとアンケートを渡される。鬱陶しいのでほとんど受け取らない。今回も断ったのだけど、断るというのは「道の情報へのアクセス方法を自ら断つこと」であり、つまりそれは「自分が求めている情報にのみアクセスできれば良い」というインターネット時代的な傲慢さの現れであって、あまり良くない事なのかとも思えてくる。
 いや、傲慢か否かよりも、クソ田舎に住んでいる人間にとってそれは単純に「損」なのではないか。ただ、正直90%以上は捨てるであろうチラシの山を受け取るのはめんどくさい事ではあるのだが。
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