・なので少し巡回。書くことに囚われすぎて、最近、あんまりちゃんと読んでないと実感。
・しかし、読んでみたって大したことはないのだ。
・「あー、なるほどねー」という記事には稀に出会うが、「うわっ!そうなのか!?」と気付かせてくれるブログなんてない。
・無料の物には所詮、無料分の価値しかないのだ。
・そんな中で最近、ささやかな楽しみはS譲さんとゆがんだはしごさん、この二人とのコメントのやりとりだったりする。
・S譲さんは何故か僕の行動パターンを理解していて、誘導尋問のように僕の言葉を絞り出したり、抜き出したり。
・ゆがんだはしごさんは、多分僕のことを大いに誤解しているが、「違うだろ!」と思いながら「じゃあホントの所、僕はどういう人間なんだろう」とか、考える。
・高校生の頃、文通していた女の子がいて、会ったことはないのだけれど、3年くらい文通していたのだろうか。
・その子がブログをやっていて、たまに読みに行く。
・実に女の子っぽいブログで、いわゆる「僕の好み」ではない。過去文通していた、というつながりがなければ読まないであろうブログ。
・でも、過去のつながりがあるから読みに行く。そして、過去のつながりがあるから、そこから何かを「読み出そう」とする。
・結果、色々なことが読み出せる。色々気付くことや感心すること、「いい話だなあ」と思うことがある。
・夜、会食。焼肉。
・ニュースで、民主党議員が「シークレット・」を「シークレット、ナカポツ!」と読んでいるのを見てドギモを抜かれる。
・調べるとナカグロの事をナカポツということもあるらしいが、「ポツ」ってのがどうやっても緊張感を削ぐじゃあないか。
文字にすると全てどこか違うように見えてきそうなのだけれど、あえて挑戦。
自己に向けたニヒリズム、というか。
この記事前半部、書き手として「批判されている」と取る人はいるかもしれない。
でも、これは「批判」というより、自分がおもしろいものをおもしろいと思う「目」や「感覚」というもの、そういうものを守ろうとしているってことで出てくる表現だと思うのよね。
ただ、時々、この「自己に向けたニヒリズム」のようなもののバランスが悪くなるときがあるんだろうな、なんて思ったり。
「これでしょ」なんて、多分大事なんだろうなと思うものを手に取って見せたくなるときがある。
で、その、多分大事なんだろうな、と思うものが、わたしが見ても、きらきらしてたり、大事にしたいとこだよなあ、なんて思ったりするところだったり。
それが誤読であろうと誤解であろうと、わたしが見えているものはこんな感じだよ、と、手の内公開。
人のブログを読む事に囚われすぎて、最近あまりちゃんと書いてないなと実感しています。
> 「無料の物には所詮、無料分の価値しかないのだ」
という言葉を見て、「俺の事か!?」って勘違いして、トマトを力一杯ぶつけまくってしまいました。
ソレを言っちゃあ元も子も無いというか・・、そうゆうのをサラリと言ってのけるところも好きです。
LSTYさんという人は、
被害妄想に陥りやすいタイプのブロガー(=俺)の心を、巧みに操作して、
「お前の不幸は蜜の味だよ・・」って、
他者の怒りの感情を体内に吸収しながら巨大化するタイプなのかなとか思ってました(あ、また勘違い、、
村上隆さんの絵が、LSTYさんの悪戯心を物語るようで・・
毎回記事の左上に出る絵が、とても可愛いと思っています。
自分のブログにも昔、S嬢さんのような凛とした女性が来てくれてたのですが、
「導く者」というか・・・ そうゆう存在の女性が近くに居てくれるって事は、とてもとても有りがたい事だと思っています。
LSTYさんが羨ましいです。
自分も関わりのあった女性のブログは、
離れた後も、毎日ストーカーのように覗いているのですが、
ああ、俺はこうゆう女性と関わっていたのだなあ・・とかしみじみ懐かしさに心温まるような気持ち、解るような気がします。
僕にとってブログを書くと言うことは「既に得たものを、ちょろちょろと出すような物」であって、創造的ではないのですよ。ブログを書くことによって自分が変わったり成長するという実感がない。それに最近少しイライラしているのかも知れないです。
しかし「無料の物には」というくだりは、特に感情的に書いたわけでなく、最近やはり「ブログ読むより本を読んだ方がずっと良いな」と思っているのです。
それは効率の問題ですね、「読むことで何かを得る確率」っていうのがあって、ブログを10時間読むよりも、本を10時間読んだ方が、何かを感じる可能性が高い。
web上のコミュニケーションが同調をベースにしている以上、それはそうだろうと思うのです。「インタラクティブ」なんて今やあまり使われなくなりましたが、双方向性を持ったコミュニケーションというのは、同調をベースにした比較的つまらない物になりがちなのでしょう。
以前も書いたのですが、僕は「大事な物」を狭く囲おうとする人間です。物でも人でも、大事な物は少なくして、でもその分、強く思っていたい、と考えるタイプです。
Sさんはそういう所をうまく突いてきますよね。普通突かないような部分を、突く側にとってもリスキーだから普通の人はあまりやらないんですけどね。
いやー、それは大いなる勘違い。
僕には基本的に「悪意」はないですよ。あまり。善意もないけどさ。
ただ「すべての物事には『裏』がある」と思ってかかる人間ではあるけど。
それから「導く者」というのはどうなんだろうか。影響は受けても、導かれることはない、と僕は思う。こういう事を言うから嫌われるんだろうけど。
えへ。
5年も?そうだったか。
>無料の物には所詮、無料分の価値
有料のものと同じ軸で価値を測れば無料分の価値しかない、と感じます。情報性であれ、思想性であれ、娯楽性であれ。
私はブログを読み/書き始めてから1年ですが、倦怠感は無いですね・・・。単に熱中期の途中なのか、既存の媒体と違う価値を見出しているのか、まだ自分のなかで整理がついていません。
しかし、きちんと読書する時間を確保する大切さは、日々感じております^^;
ブログを色々読んでいて、良くも悪くも「違和感」を感じなくなってきました。自分にとって新鮮なものが無い。
なんとなく、SNSのように、善意の名の下にすべてが丸くなってゆくような。「同調されるようなことを書かなければいけない」というような感覚。上にも書きましたが、双方向性を持つメディアの宿命なのかも知れないのですが。
でも結局は僕自身の問題なんですけどね。