
後から検索してみても、どうもこの話は一般的には知られていないようなので、文字化。
劇団天井桟敷に関してはweb上にも様々な記述があるが、この「観客席」に関しては内容についての文章がなかったんで、ここにメモとして書いておきます。思い出しながら書いたので、覚え違いなどあるかも知れません。
天井桟敷の中で俺がぶっ飛んだのは「観客席」っていう芝居。僕がこの話で面白いなあ、と思ったのは、観客っていうのは「私見る人、あなた(役者)見られる人」という安心感を持って芝居を見に来るわけですよね。当時のアングラでは違ったのかも知れないけど。
芝居のチケットを取る時に、芳名帳みたいなのがあって、客がみんな名前とか住所とか書くの。そこにチケットが送られてくる。
で、芝居の上演日の何日か前から、天井桟敷の劇団員が、客を尾行するわけ。
当日、芝居を見てると突然、館内放送で「何列目何番の○○さん、あなたは二日前の何時頃、××の立ち食い蕎麦屋で、きつねそばを食べましたね」なんて言われるわけ。で、さらに「その後、家に帰り、何時頃電気が消えましたが・・・」なんてくる。
これはぶっ飛んだね。寺山修司って変態だからさ。滝本淳助氏に聞いた話を思い出しながら文字化
赤瀬川原平は著書「千利休−無言の前衛」の中で「前衛っていうのは、日常生活そのものが芸術であるという考え方」みたいなことを書いてたが、つまり芝居における前衛の究極の形が、この「観客席」なのかもしれない。
この芝居自体の芸術性っていうより、その、尾行された客自身が、芝居を見た翌日からどのように生活するのか、今までの「私見る人」という前提が崩れたあと、自分自身がどう生き、どう振る舞い、またどんな顔で芝居を見に行くのか。これが前衛芸術なんです。観客自身の人生が、前衛芸術になるわけね。
すごいよね、これは。こんなに迷惑な話はない、とも思うけど、そこには芝居という芸術が担う「業」みたいなのがあると思う。「河原乞食」からの業ですよ、これは。見られる人=役者は被差別社会の者であり、それを支配階級が見て楽しむみたいなのがあったわけでしょう。その関係が、ある日逆転するというか、安心して見ていた人間が安心していられなくなる。均衡が崩れる。これは被差別集団であった河原乞食による「反乱」みたいなもんですね。
タキモトは「タキモトの世界」の中で「小劇場演劇という呼び方じゃなくて、アングラが良い」って言ってたね、たしか。つまりアングラと、その後の小劇場演劇は違う、という事だろう。小劇場演劇は、結局「商業演劇のミニチュア」でしかない、ということではないか。前衛っていうのはそういうもんじゃないよ、という。
僕もせいぜい、夢の遊眠社くらいからしか知らないからね。そういう世代からすると、タキモトによるアングラ話は、聞いているだけで刺激的な物だった。
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注1:その後、滝本さんからの指摘で、実際に尾行していたか否かについては判然としない、とのこと。つまり、尾行した体(てい)で台本を作った可能性もある、ということだった。
web上の他の記事では「尾行されたとされる観客自体が、客ではなく役者だったかも」みたいな見解もあった。ただこれについては、敢えて明らかにするのも無粋であるように思う。なので、これ以上は掘り起こさないつもり。
タキモトさん、ありがとうございました。以下は当該のtweet。
@LSTYpt2 様。天丼桟敷の「観客席」についてですが、本当の本当の本当は客を尾行などしてないのかも知れません。全て台本。観客には尾行したのか!?と思わせるだけで成立する訳です。天丼桟敷の人に知ってる人がいるので聞いてみようか?いや訊かぬがいいか!?。----------
注2:その後しばらくしてからの、滝本淳助さんによるtweet
天井桟敷「観客席」もゾクゾクしました!渋谷ジャンジャン。場内を完璧に真っ暗闇にして客が客の耳元で紙をクシャクシャしたり頭撫でたり。「86番の岸さん、あなたは昨日会社の帰り道、餃子とチャーハンを食べ1時過ぎに電気を消して寝ましたね」って客を尾行(つづく)
寺山修司「観客席」僕は、どういう仕組みでこの芝居?が作られてるのか!?って、2回観に行きましたよ!多分、観客席の中に劇団員が何人か紛れ込んでいたと思います。初演では、寺山さん、女性のお尻触っていたとか!?いや、この噂も意図的に流したのかも知れません。