2012年06月06日

5月下旬からのTweetまとめ

Pop is dead.
Pop is dead.・最近どうも生活が落語の方にふれすぎている。同じ事ばかり考えていると、趣味といえども窮屈になるので、ちょっと他の方面に揺り戻しを加えたいところ。
・しかし、毎週にように朝から大須に行って、夜帰ってくるというこのリズムは良い。これに代わる、良いリズム、良い時間の過ごし方はなかなか見つかるまい。

・日々、断片的にいろいろ思うことはある。しかしまとめて書くほどの事はない。そういうわけで以下は最近のtweetより抜粋。

・ドリフターズの貧乏長屋コントで、5人が花見に行って「おーい、もうせん!もうせん!ダメだ。志村ー!むしろ、むしろー!」っていうネタ、見たくない?

・世の中には、その店の蕎麦がうまいかどうか関係なく「蕎麦という形態の物」を「おいしい」と表現する事によって、自分のステイタスが上がる、と考えている人がたくさんいて、これがノイズになる。他の食べ物ジャンルでは、こういうの無いんじゃないのかな。

・口説こうと女を連れ出したら、逆に女に英語教材斡旋される、という光景を目にした@串カツ屋。口説くならもう少し良い店を選べよ、と、そこが気になりましたよ、おじさんは。

・桂珍念、僕は彼の話は嫌いじゃないけど、物を食べる擬音が穢すぎる。「ジュッルルルズズォー」という、あの音の穢いこと。

・そういえば、坊主の奥さんのことを「大黒」と言うが、尼さんの旦那のことはなんて言うんだろう。
・大黒さんは台所の神様で、坊主の飲食を満たす神様だったから、僧の食事を作る、という意味から「大黒」という呼称が出来たんだろう、多分。

・「あの娘ぼくがストロングマシーンだと知ったらどんな顔するだろう」

・団鬼六って「大工と鬼六」から来てるのかな、と思って、そういえばこの歳になるまで「諱(いみな)」とは何か、真面目に考えたことがないと気付いた。所詮人によって付けられた記号(名前)に霊的な支配力があるとはどういう考え方なのか。
・つまり諱(本名)に霊的支配力があるというのは、生まれてきたものに対して名前を与える、記号化してこの世の物と認める、という名付け行為自体が、対象物の生を支配する行為だと考えられたからじゃないのか。キリスト教の洗礼名と似てるのかな。

・2chで「ハッケン」が「ハケーン」になる現象は、タモリの「日本ジャズ界の変遷」風に言うと「促音後退長音化」だな。

・昨夜、偶然「リーガル・ハイ」というドラマを見たがそこそこ面白かった。しかしタイトルが良くない。「ストロベリー・ナイト」の時も思ったけど。予備知識がないと、興味が持てないタイトルだ。

・そういえば先日、パーカーのインジェニュイティ試し書きしたけど、廉いピグメントライナーと特に変わらなかった。なによりデザインが徹底的にダメなので、あれだったらモンブランのファインライナー買った方が良い。

・宮本信子は好きな女優ではあるけれど、伊丹十三が「宮本史観」で語られるのは、ちょっとイヤだ。宮本信子が伊丹に映画製作を持ちかけたのは「彼(伊丹十三)が伊丹万作の子だから」ではなく「前妻と映画を撮ったから」だろう。

・もう2週間くらい、ブログを書いていない。リアルな世界で人と会うことが増え、狭いリアルの世界が開かれている、その所為でブログを通じた広い世界が閉じられた感じ。しかし安心して下さい(?)もうそろそろ、寄席通いにも飽きてきた。

・松崎しげるの14曲愛のメモリーCD、「みうらじゅんは絶対予約してるな」と思うと同時に、14曲1000円は良心的だし、古い歌手の有名な歌だとオリジナル曲を探すのがめんどくさかったりするので、これはリリースとして非常にマトモで丁寧だと思うのだった。

・一般的に「三木助は芝浜」「芝浜は三木助」ってことになってるっぽいけど、僕にとって三木助は「三井の大黒」なんだな、なぜか。芝浜はあんまり良いと思わない。
・芝浜は不思議な噺で、何人か聴き比べて、どれにも文句がある。「あの人はあそこが悪い」とイチイチ思っちゃう。でも、それらがミックスされて、頭の中で「いろんな人の良い部分」が混ざって、最終的に「良い噺」として認識されてるようなところがある。

・『価値観の多様化』って言われると「ふーん、そんなもんか」と思うけど、極端に言うとそれって「隣人が何考えてるのか分からない」「自分の周囲の人間が信用出来ない」って事だと思うんだよなあ。
・つまり『価値観の多様化』っていうのは、戦後、階層って物がなくなってジワーッと同化した日本人が、いったんジワーッとなった後で、その中で分離してるような、そういう事でもある、ように思える。
・バーテンダー風に言うと、プースカフェ作って、かき混ぜたら分離した、みたいな話か。

・つげ義春の「赤い花」で、読者は主人公の男性に感情移入しがちだろうが、チヨジに自分を投影すると感慨深い。成人したチヨジが村を出ると寺山修司の「田園に死す」になるのだろうか、とか。
・(補足)つげの紀行漫画では、主人公=つげ=都会人=想定される読者ということになろう。当然、読者は主人公の立場で作品を読み、チヨジのような登場人物は「他者」として認識される。しかし、実際そうなのだろうか。チヨジに感情移入して、自分をチヨジに近づけて考えてみると、そうとも言えない。主人公(都会人)が憧れるような田舎に住み、しかし都会や現代的生活に憧れる女の子。彼女はもしかしたら、成人して東京に出るかも知れない。その時チヨジは幸せになるのだろうか、そういう事を妄想した。
posted by LSTY | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーを含むはてなブックマーク
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