
古今亭志ん朝「居残り佐平次」より。
・日曜早朝。日本の話芸。圓菊という落語家。哀れに思うほどの下手さ。びっくりするような「井戸の茶碗」
・笑わせよう、面白くしよう、という気持ちが微塵も感じられない。ただ本をなぞっているだけ。工夫も技能も、愛嬌も真面目さもない。
・古典芸能を「ただなぞるだけの物」としかとらえていない人が、やはり多いんだろうなあ、と思った。こういう風に、落語は死んでゆく。
・先日、桂文珍の高座を見ても思ったのだけれど、落語っていうのは「一定時間内に、所定のテキストに書かれたことを全部言う競技」じゃないのだ。
・そんなことを言いながら、文珍の存在自体を否定する気はないのです。鶴瓶なんか落語家としては大嫌いで全くの無能だと思うけど、パペポなんかではそれなりに面白かったと思うわけです。
・つまり「落語という範疇」の外にいる限り、別に攻撃する気にはならないんです。
・私が古いのかもしれませんが、落語家に弟子入りする、というのは落語をする、って事だと思うのですよ。
・なんか、文珍なんかのバラエティー落語家って、落語ができないのに都合がよいときだけ羽織を着てご機嫌を伺ってる感じ。
・そこらへん、立川一門は上手くやってる印象はありますね。
・こぶ平も、落語なんてできないんだから。だから名前なんか背負わせないで、テレビタレントにしてやればいいと思う。
・日曜夜、NHKにて中村勘三郎襲名披露「一條大蔵譚」。
・先代の名演を知っているだけに、素直には評価できない。
・以前も思ったのだけれど、当代の芝居には「新しいことをやろう」という意気込みが感じられすぎる。それが嫌味になることが多い。
・しかし、それこそが「未来に歌舞伎を活かすための手段」でもあるのだな、と。
・死んでゆく落語と、生き続ける歌舞伎の対比だろうか?
・古典を新しくやられると、以前の古典を知っていたものの反発を得る。しかし、それは長く古典を生かすために、重要なことだ。
・猿之助のスーパー歌舞伎は、これにはあたらない。あれは言わば「新作落語」であって、歌舞伎というフォーマットを使いながらもまた別のものだ。
・そして、おそらく、それは今後「古典」にはならないだろう。
・志ん朝師匠は、まさに当代勘三郎のようだった、ということか。
・偉大な父親を持ち、その「型」を学び、しかしそれに甘んじることなく「志ん朝の型」を作った。
・志ん朝師匠の落語を聞くと、志ん生師匠と同じではない。確実に志ん生師匠を踏襲しながらも、絶妙な工夫がされているのである。
・型を守ることと、型を破ること。このバランス感覚はセンスだ。生きていてくれればなあ、と思う。
春風亭柏枝という噺家が“堀の内”演ってるんですが
「何年、修行してんだよっ!」というくらい悲惨!
http://nagasakiyose.com/130kai/hakusi.htm
こういう風に落語は死んでゆくのですね…
先日、TBS系の「落語研究会」で見た古今亭志ん輔は
まあまあよかったですよ。
http://www.tbs.co.jp/program/rakugokenkyukai.html
BS-iで再放送もしてるみたいです♪
次回の再放送は5月1日0:00〜3:00です。
圓菊は確か志ん生の弟子だった人ですね
確かに抑揚のまったく無い話し方をする人
子別れを聞いたときは寒気がしたものです
それでもコアな人気はあるようですが
志ん朝は文楽のような円生のような志ん生のような
いろんなテイストをまとめて結晶にしちゃったような人でしたな
あと10年存命だったらと思うと残念です
まあ落語は死にませんよ、CDがあるから
もうそれでいいじゃないかと自分を慰めている次第
>「未来の落語を憂う会」
ぜひ手下に加えてください(笑)