
・僕の感覚で言えば、YouTubeによって音楽業界は潤うんですよ。今までタワーやHMVでしか出来なかった試聴が、全国津々浦々で出来るわけだから。
・でもねえ、確かに聴くだけで買わない人っていうのも、相当いるわけで、そこなんだけどね。でも僕は、良いと思ったら買うよ。
・つーかさ、良いと思った物を買わないやつって、結局YouTubeがあろうがなかろうが買わないんですよ。いずれにせよ、客にはならないんですよ、そういう輩ってのは。
・自宅で、昔の菓子缶を開けると何故か大量の切符が見つかる。電車の切符。平成元年前後のものが多くて、当時僕はそんなに電車に乗っていないはずなんだけど大量にある。
・多分、当時定期で通勤していた父親がくすねて来て、僕にくれたのだろうと思う。
・中には硬券も混じっていた。一番古そうだったのが昭和58年(1983年)の「城之崎から三ノ宮行き」という切符。83年というとYMO散開の年だよ。僕は当時8才だよ。そんな年の「城之崎から」
・歴史を感じるねえ。
・YMOのラテンカヴァーを聴いていて思うのは、こういう音楽を自然体で楽しめる人っていないよなあ、ということ。
・YMOをラテンに、ってだけで「ああ、ネタね」としか処理できない人。そういう人っていうのが多すぎる。
・KRAFTWERKのカヴァーはネタの域、思いつきの域を出ていなかったけど、このYMOカバーは良い感じです。
・ちゃんとラテンになってる、というか、ラテンでもオリエンタルでもなく、怪しいモンドミュージックになってる。面白いのは、細野さんがYMOを結成(プロデュース)するきっかけがマーティンデニーというモンドの巨匠であって、そのYMOの曲が今、モンドとして復活しているなんていうこと。
・細野さんの目論見としては「最新のスタイルであるテクノ・ポップを、東洋人の武器であるオリエンタリズムで売り出そう」って事でしょう、それが巡りめぐってこんな形になってるのが素敵。
・数年前から聴いている圓生師匠の「真景累ヶ淵」、最後の「聖天山」まだ聴き終わらず。CD7枚目の「お累の自害」が重すぎるんだよなあ。
・新吉が、金がないとて蚊帳を質に入れようとする。しかし蚊帳がないと幼い子供が蚊に食われる、と言って抵抗するお累。無理矢理、新吉が蚊帳を引っ張る。と、蚊帳に付いているのはお累の生爪。
・これはねえ、怪談話とはいえ、引くなあ。
・こういうの、圓朝の狂気なんだろうなあ。圓朝の考えた怪談の発端というのは「神経の過敏」であるはずなんですね。つまり「見えないはずのものが見える」という過敏さ。でも、それが日常になってきたり、あるいは頭がおかしくなってくると次に出てくるのが「神経の麻痺」、女房だろうが実子だろうが、モノにしか見えなくなる。「過敏」だけでなく「麻痺」も描いているのが圓朝の恐ろしさですね。
・普通、これはグロテスクすぎて演じられないですよ。それを、芸の鬼である圓生師匠が演じる。いろんな意味で怖いなあ(笑)やっぱりこのCD8枚は世紀の名盤ですよ。
・土曜日に「真景累ヶ淵」ついに聴き終わる。「聖天山」は「しょうてんざん」だと思っていたら「しょうでんやま」だった。
・CD8枚に渡る高座ながら、実際の話の半分ほど。(圓生百席に収められているのは全97回のうち53回まで)
・午後、彦六師匠の聖天山を聴く。良くない。僕は感覚としては圓生師匠よりも彦六師匠が好きだが、やはり彦六師匠にも「こりゃ圓朝系の噺だ」という気持ちがあったのか、集中力に欠ける高座だった。
・夜、YMO諸作聴く。やはり「灯」のベース、ここにはベースの快楽が詰まっている。こういう官能的なベースばかり詰まっているジャズが聴きたいように思うが、そういう録音に出会ったことはない。
・「HOSONO BOX」を流し、そして「Technodon」を聴く。テクノドンは実はすごい名盤なんですよ。誰も評価してないっつーか語られないCDだけど、穿った見方をするとこの時点でテクノは死んだ、という事じゃないか。
・デトロイトテクノもレイヴも全部一緒くたにして「なんだよそれ?」って一蹴したアルバムだよなあ。一蹴というか一喝かなあ。
・岩波文庫「真景累ヶ淵」三遊亭圓朝の高座を速記で文字化した物。圓生師匠の高座はかなり忠実にこれを踏襲しているが、随所に違いがあるのも面白い。