
「情報の価値」という物は、情報その物に宿るものではない。情報を受け取った人間によって生まれるものだ、ということ。
その情報は、新聞記事でも、コラムでも、ブログでも文学作品でもいい。(本来新聞記事は違うような気がするけど、最近の新聞は週刊誌化していて、その半分以上は主観で構成されているようにしか見えないので、一応入れておきます)
例え誤読であろうが、誤解であろうが、情報の受け手が何かを強く感じたとしたら、その情報には価値がある。僕は、本の「献辞」だけ読んで全て分かった気になって悟りを開いちゃったりするのだけれど、それは読者として感心できないにしろ、十分意味のあることなんだ、そういうことだって。全部読んで「なるほどねー」と思うよりも、誤読して「悟っちゃった!」と思う方が、人生にとってなんぼか意味があるってなもんじゃないか?
鮮度によって価値を失う情報というのは、結局「マーケットに向かって」発信された情報なのだと思う。それを扱えば売れるから、その事について書けば多くの読者が獲得できるから、という理由で発せられた情報には、本質的な力がない。情報の受け手は、話題がホットな内は反応してくれるだろうが、飽きてしまえばそうではなくなる。
僕は、力のある情報というのは「マーケット」ではなく「人に向かって」発信されたものであると思う。いやむしろ「自分に向かって」か。自分が感じたことを、掘り下げて考えていった結果を発信すれば、それは10年経とうが価値のある情報だと思うのですよ。
すごくちぐはぐな文章になってますが。気が向いたら修正します。
報道と文学を一緒にしちゃったのが間違いの元か。
考えてみたんですけどね(笑)
とりあえず自分のことは横に置いておいて
日本人って自分を他者に向けて表現するのが
ヘタなんじゃないかなあって思うんです。
「こういう事件があった」「こういう本があった」は書けるんだけど
じゃあ、それに対して自分がどう思ったかという表現が
苦手なんじゃないでしょうか。
そこに本人が心から感じた感想がないと記事、つまんないですもん。
動機が不純な記事に力がないというのは確かにいえてますね。
最近、明らかにアフィリエイト目的のブログが多すぎ。
Amazonの紹介文そっくり掲載しただけの本のブログとか
あるんですよー。ぷんぷん。
作品がどうこうではなくて、オレ的にどうこうって語っちゃって良いと思うんですが、そういうの少ないですよね。あったとしても「おもしろかった」「絶対お薦め」っていうバカレビューばっかりで(笑)
「オレ、なんでこれを面白いと思ったんだろう?」っていう、「自分マニア」な考察がないですね。みうらじゅんは「自分マニア」を自称してるんですけど、惹かれるのはそこですね。
ダメな部分、恥ずかしい部分を含めて自分を賞揚し、自分大好きになるっていうのは、大事だと思いますよ。
ただこの場合「ダメな部分、恥ずかしい部分を含めて」というのが重要で、自分のいいとこだけ見てる人はイタイだけですから(笑)
アフィリエイトは、ダメなの多いですね。他の所にも書いたんですが、「買わせたい」という思いが「自分なら買うか」に先行している広告はゴミです。