・Facebookというのは私にとってはブログのような物で、リアルの知人と少しマニアックな会話ができるかと思ってやってみたが、私が期待するような面白い話をFacebookに上げている知人はいなかった。まあ大抵は子供の写真だ(私は「あなた自身」をフォローしているのであって「あなたの子供」をフォローしているわけではない!と何度心の中で叫んだことか)私の知人にも話の合う人、面白い情報や話題を持っている人は居るのだけど、どういうわけだかそういう人はFacebookをやっていない。しばらくやっていたけど「くだらねえ」と思ってアカウントを凍結した。
・で、LINEだ。グループというものを活用すれば面白いのかも知れないけど、基本的にはFacebookと同じでやり取りされる情報に価値があるとは思えなかった。そしてスタンプなんて、あんな物よく恥ずかしげもなく使えると思う。そして何より「LINEを常に見ていることを前提に」緊急性の高いメッセージを送ってくる人間が複数いたので「これは害悪だ」と判断してアプリケーションごと削除した。そもそも電話というのは「相手の都合を無視して、相手の時間を横取りする道具」なわけでしょう。携帯電話なんてその最たる物だ。電話やショートメールだけでもストレスになっているのに、更に「常に見ていることを前提に」されるものが増えるなんて、これは生活の質をどんどん落とすことになる。
・そういう経緯があって、やめて以来もたまに「なんであの人たちはああいう無価値な日記を垂れ流すのだろう」ということを考えていた。無価値というのは「レベルが低い」という事ではなくて「今日はBBQ〜♪」とか「今日は息子の運動会でした☆」という投稿は、レベルの高低の問題ではなく「自分の考えたこと・感じたこと」を何も表明しておらず「だからなんだ?」という感想しか持てない、というのです。
・リアルな知り合いだからこそ当たり障りのないことしか書けないとか、いろんな理由があるんだろうけど、それにしたってもう少し何とかならんのか?何であんなにつまらないことしか書けないんだろう?と、たまに考えていた。で、今日、突然わかったような気がしたわけです。
・『彼ら』はSNSを「メディア」ではなく「インフラ」として使っているのだ。
・言葉の使い方が私流のような気がするので整理しておくと、例えばメディアはテレビ、インフラは電話です。メディアというのは媒介される情報・コンテンツに重きが置かれ、インフラはコミュニケーションのための仕組みとして存在し、いつでも使える状態であることが重要、というようなニュアンスです。
・僕とインターネットとの関わりを顧みると、FTPを使ってホームページを管理する時代から小さな(誰も来ないような)webページを作って、2004年からブログを作って遊んでいるわけですね。そういう人間からすると「Web=メディア」なんですよ。それも第三者に向けて開かれたメディアなんです。第三者が見てある程度面白がれたり、ためになったりするような事を書こう、という事は多少なりとも意識してきたわけです。Twitterをやるようになってその姿勢は弱くなったという自覚はあるものの、しかしそういう態度でいなければいけないと思う。
・ただ『彼ら』にとってFacebookやLINEというのはテレビのような存在ではなく、電話なんです。つながっていることが重要なわけで、高校生や恋人たちが、第三者からすると何の価値もないような雑談に興じるのと同じように、やり取りされる情報に客観的な価値があるかどうかなんて関係ないのです。つまり極論すれば「友達」という関係性が重要なのであって「そいつが面白いことを言うか」というのはさほど重要ではない、という事です。無価値だから雑談をするな、という気は毛頭ないんだけど個人的には「それってWebが生まれる前からあるものだよね」という違和感があるんですよ。使ってる人からすれば何だかんだ言われる筋合いはないと思うんです。有線電話→ポケベル→携帯電話→SNSと技術が入れ替わっただけで、本人たちにとっては当たり前のコミュニケーションを取っているだけなんです。しかし飽くまでも「Web=メディア」として接してきた私はどうしても違和感を持ってしまうのです。
・で、Twitterなんかはこの「メディア」と「インフラ」が不幸な形で融合したものなんではないかなあ、と私なぞは思うわけです。若い人に多いんだけど、第三者から見られていることを意識していないTwitterユーザがかなりの数、存在する。そういう人はTwitterを主に「インフラ」として使っているわけですよね、友達との会話や内輪ネタをやり取りする仕組みとして使っている。しかし一方で友達が投稿したものか否かに関わらず「面白いネタに食いつく」という「メディア」的な使い方もする。つまり妙な閉鎖性を持った、しかしオープンな情報が流れているわけです。閉鎖性があるから変に安心感を持ってしまい、オープンな場であるから「目立ちたい」という心理が働く。そしてまたオープンであるから悪い情報もすぐに拡散する。こういうのがTwitterで炎上が多発する理由でしょう。
・ここまではすごく一般論的な「そんなことみんな分かってる」という話なのかも知れん。文章にすると我ながらあまり面白い話ではないが、しかし今日突然「メディアとインフラ」というキーワードを元に「Facebookなどでどうでもいい話をする人」のことが分かった気がしたのだ。
・で、ここからなんですが「じゃあ将来的にWebの世界というのはどうなってゆくのだろうか」と考えた時にですね、これはやっぱり、Webの世界というのはどんどん小さく収縮してゆくのではないのか、と。多くの人が「インフラ」としてWeb(クローズドなSNS)を使い、それ以外にはニュースやYouTube・Wikpediaのような少数のWebページを参照するのにとどまるのではないか。個人のブログなんかも消えることはないけれど、検索エンジンで引っ掛かって一度見たら終わり、という、つまり個人のブログを継続的に読んで楽しむような人はどんどん少なくなってゆくのではないか。
・僕はブログというのは「誰が書いているのか」が重要だと思っていて、つまり書き手がたくさんいて、読む人は自分の好きな文体であったり主張であったり、趣味であったりを持つブロガーを選んで、その人の書いた文章を継続的に楽しむという世界が大事なのですよ。継続して読んでいるから欠点を含めた人格についてもある程度理解した上で、その人の人生を覗き見ることができる。「誰が言ったかが重要ではなく、何を言ったかが重要だ」という言葉があるけれど、一般的なブログにおいては「誰が言ったかこそが重要だ」と言える。
・で『彼ら』つまりインフラとしてWebを使う人が増えれば増えるほど、『彼ら』とブロガーの関係は「検索して一度きりの関係」になってしまうということですよ。検索したい情報さえ手に入ればいいわけで、コメントも残さないし二度とこないでしょ、多分。何かの偶然で二度目に来ても最初に来たことは忘れているし、当然ブロガーの「人格」に思いを致すことはない。これはやっぱりブログという文化の死ですよ。
・ブログに限らず、個人や小規模な団体が運営するWebページというのも、同じように縮小してゆくのではないか、という予感がしているわけですね。余程の好事家か使命感を持った人じゃないと続けていけないんじゃないか、と思いますよ。見てくれる人が減ってゆくわけだから。
・まあブログが減っているというのは何年も前からのことなんだろうけど、僕にとって少なからずショックだったのは、一方で「Webが生まれる前から存在している無価値な雑談をする人」はどんどん増えているらしい、という事ですよ。これはWebという世界の「収縮」を意味する。
・Webというものが出現し、個人でもWebページが持てると知った時、私は「これは誰にでも第三者に情報が発信出来るという福音だ!」と感じた。そして2004年前後にブログブームが起きた時に「これはありとあらゆる情報や個人知がアーカイブ化される福音だ!」と感じた。思えば、この頃がWebという「知の世界」が最大に膨張した瞬間なのかも知れない。もちろん、Wikipediaのような知のアーカイブは相変わらず膨張を続けているわけだけれど、素人の個人が例えば「ある芝居を見てどう感じたか」というような情報、人にひも付いた情報というのはどんどん少なくなってゆくんだろう。一方でTwitterでの「○○見たー、面白かったー!」というような「感想」は増えるんだろう。
・そういうことを考えていると、暗澹たる気持ちになってきたわけです。僕は「誰にでも第三者に情報が発信出来る!」と興奮していたが、そもそも多くの人は、そんなことしたくもなかったのだ。友達と雑談してる方が楽しい、と思っていたのだ。
・自分から情報を発信したいと思うような人はごく少数派で、ほとんどの人はそんな事はめんどくさいと思っているというのは、考えてみれば当たり前のことなのだと思う。そこで「暗澹たる気持ち」になるという事がおかしいのだ。これは僕が2004年にブログを始めて「個人知アーカイブの膨張」を自身で経験し、それに興奮を覚えたからなのだろう。ブログブームというのは「ブーム」だから、本来は情報発信になんか興味のないはずの人を巻き込んで、情報量が拡大した。これこそが「異常現象」であって、言うなれば「情報のバブル経済」だったのだけれど、その中に実際に身を置き、リアルタイムで興奮した私は「このままアーカイブが膨張してゆくのだ」という幻想を抱いてしまったのだろうと思う。あれから10年以上、その幻想を抱き続けてきたが、ようやく夢から醒めたような感覚だ。