・この人、なんでこんな事を知ってるのかと思ったら家が代々「有職故実」という、公家の生活に関する研究者なんですね。で、その家自体がお公家さんの家系でもある。
・そこで公家で猪熊家というのを検索してみると真っ先に引っ掛かるのが江戸時代初期に起こった大スキャンダル「猪熊事件」というやつで、その中心人物である猪熊教利という人と関係あるのだろうか、いやいやまさか等と思い、家系図を確認してみようと思ったんだけど、不思議なことにWikipediaを見ても猪熊家の家系図ってのはなくて、猪熊兼繁の父の名前を調べ、さらにその父、と一人一人たどる必要があった。
・そうやってたどり着いたここを見ると祖先は香川県の白鳥神社の初代宮司「猪熊兼古」となっている。しかし、そこから先が分からない。分からないはずで、猪熊兼古なんていう人は居なかった、というか本名は「卜部兼古」だったんですね、別名「吉田兼古」
・それが分かるとスルスルと家系をたどることが出来まして、ここを見るとその先祖は卜部兼国(恐らく平安時代の人)までさかのぼれる。
・本名が卜部、別名が吉田で、もともと猪熊姓じゃなかったんだから猪熊事件とは多分関係ないんだろうなあ、とは思うんだけど、じゃあ「猪熊」っていう姓はどこから来たんだ?とさらに検索するとここに兼古の孫である卜部兼慶という人が「讃岐猪熊家」を継いで、以降猪熊姓を名乗るようになったとある。卜部というのは本当の姓(本姓・氏)で、猪熊とか吉田とか後に出る藤井というのは本姓ではない、言わば通称の姓、苗字という事らしいのですね。由緒正しい家には姓が二つあるだなんて、この歳になるまで知らなかった。ぼーっとして生きてるからそんな事も知らなかったわけです、面目ない。
・で、兼国からの系譜を並べて書いてみると、
・卜部兼国(おそらく平安時代)・・・猪熊兼古(別名:猪熊千倉、吉田兼古。本名:卜部兼古。1602-1678。1664年に京都から讃岐国=香川県へ移住)-卜部兼魚(1620-?)-卜部兼慶(1665-?。讃岐猪熊家を継ぎ、後に猪熊兼慶)-猪熊(藤井姓を名乗る)・・・猪熊慶歓-猪熊夏樹(1835-1912。明治維新後、京都へ移住)-猪熊浅麻呂(1870-1945)-猪熊兼繁(1902-1979)
・讃岐猪熊家というのがどういう家なのかについては検索しても分からなかった。しかしいずれにせよ、恐らくそれまで吉田姓を名乗っていた卜部家が猪熊姓を名乗るようになったのは1665年以降ということで、猪熊事件(1609)の猪熊教利とは無関係のようだ。
・そういう事かあ、と思っていたらここには、卜部家は京都にいた頃から猪熊姓を名乗っていたようなことが書いてある。もうわからん。
(猪熊教利はもともと高倉家出身なので、恐らく直接の関係はないと思う。もしかしたら卜部家も当時通称として猪熊姓を名乗っていたが、猪熊事件以降、猪熊姓を名乗ることを忌避して本名の卜部ないしは吉田姓を名乗るようになり、数十年後に姓を猪熊に戻したという事かも知れない。しかし公家の世界は下の名前だけではなく名字も変わるとは、チンプンカンプンだ)
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追記:猪熊教利が処刑された後、その息子は高松藩主の生駒一正に引き取られて生駒正幸を名乗っている。高松藩=讃岐国なので、やはり何らかの関係があるのだろうか。
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再度追記:猪熊姓→藤井姓→猪熊姓と姓が変わった経緯が不明だな、と思ってふたたびここを参照すると、藤井兼代という人の子供(三男と四男?)が猪熊姓を名乗っていて、その後、猪熊慶歓、猪熊夏樹の娘が藤井家に嫁している。藤井家の傍系の家として猪熊家を名乗る家系が生まれたということだろう。しかし白鳥神社の宮司というのは代々猪熊家だったという事だから(猪熊慶歓、猪熊夏樹も宮司だった)本家ではなく分家が家業を継いだという話だろうか、それも不思議な気がする。
私はもともと歴史が大の不得意で、どうも基本的な調べ方がまずいような気もするので、詳しい方がいたらこの謎を解明いただきたいところ。