しかし全然違ったのですね。そんな話では全くなかった。むしろ都会的であった。
というかですねえ、ここまで読み急いだのは久しぶりですよ。出張中の列車の中で、まず仕事を片付けてそれから読み始めて、半時余りでかなり読み進め、出張から帰ってくるまでにあらかた読んでしまった。帰宅してすぐ読了。ページ数は結構あるんだけど、最後までくだけた口語調で訳も素晴らしいので、すぐに読めてしまう。
そして読み終わった後で僕は「やはり『名作』と言われている作品には触れるべきだなあ」と再認識したわけですよ。
例えばですねえ、オリジナルの「ゴジラ」って、まあこれは今見ると大して面白い作品ではないけれど、後世の漫画、アニメ作品に盛大にパクられているわけで、それらを見て「笑えるか笑えないか」ってことに徹底的に影響するわけですなあ。押井守の実写版パトレイバー「大怪獣 熱海にあらわる」で、熱海駅の改札から出てくる嶋田久作に爆笑できるか否か?これは「ゴジラ」を見たことがあるか?ってことにかかってる訳ですよ。
あとはまあ、細野晴臣がYMO全盛期に見せた「天国の雲の上を歩く柳家金語楼のモノマネ」は、柳家金語楼を見たことがなきゃ笑えないでしょう。そういうものですよ、古いものや「名作」を知っておく、というのは。
読み始めて、まずはそういう事にぶち当たった。だって数ページ読んだ時点で「あ、これ伊丹十三だ!」と感じてしまったのだから、いきなり元ネタ発見なのだ。野崎孝という人の訳だったが、これが1964年初版らしい。そして伊丹十三「ヨーロッパ退屈日記」出版が1965年だ。
以降は推測だが、伊丹は翻訳書が出る前に「The catcher in the rye」を原書で読んでいて、人格形成上それなりに影響を受けていたのではないか。そして自著「ヨーロッパ退屈日記」出版に先んじて野崎孝の翻訳文を読み、文体的な影響については相当に受けたのではないか、と私は思う。
つまり、それほどまでに主人公の考え、また言い草が「伊丹十三が著作上に『自分を表現』した場合のそれ(思考・文体)」に似ているのですね。
最近、内田樹が伊丹十三を評して「ヨーロッパという立場から物を語ることによって、アメリカを低い位置に見たかったのではないか」的なことを書いてたのを読んで、なるほどなあと思ったこともあり、ここら辺にはふーむと思ったね。
伊丹十三の評論眼や、それを表現するための文体は「アメリカ文学」であり、さらには「アメリカ文学の日本語訳」であるのだけど、彼の処女作は「ヨーロッパ退屈日記」である。こりゃ言うなれば「ヨーロッパ」の立場から「日本」を批評するような本なわけですよ。もっとヤヤコシク言うなれば「ヨーロッパに居る日本人俳優が、アメリカ人に憧れている日本人を揶揄するような本」と言っても良い。
(脱線するので伊丹十三の著作について詳しくは書かないが、ここに書いた「ヨーロッパ退屈日記」あたりはサリンジャーファンには大いに受け入れられるのではなかろうか)
というような感じで、伊丹十三≒ホールデン(この小説の主人公)という感じになったのが、まず面白かった。そもそも伊丹十三が評論対象にならないからね、こういうバカみたいな当たり前の話でも、僕は知らなかったし、知ることで興奮した。というか、伊丹十三研究の重要な要素だと思う、ここは。
蛇足だけれど、今回なぜこの本を読み始めたのはというと伊丹十三がエッセイにサリンジャーを引用していることを知った(というか今まで忘れてたんだ)からだ(この引用部分がまた良いんだ)
それに伊丹映画「ミンボーの女」にもこの本が出てきたし、伊丹と「ライ麦〜」には何かあるんじゃないか?と思ったから。
その他にも、私の乏しい読書経験からも、村上龍、庄司薫は「ライ麦畑でつかまえて」から影響を受けてるなあ、と分かった。後者はタイトルのつけ方くらいだけど、村上龍は相当影響を受けてるというか、表現法を流用してるなあ、と感じた。
僕は村上龍の「イン・ザ・ミソスープ」や「ライン」が好きなんだけど、特に前者の冬の新宿を歩くシーンと「ライ麦〜」にはかなり共通点があるんじゃないか。較べたわけではないが、読んでいて「あれ、これ新宿の話?」という感覚になった。あと記憶違いかもしれないが村上「音楽の海岸」に「映画なんてものは、誰でも好きだ」という台詞があったと思う。これは「僕は、何がきらいって、映画ぐらいきらいなものはないんだ」という「ライ麦〜」冒頭の一文からだろう。どうも彼は、かなり惚れ込んでいるようだとすら思う。
肝心の、この本の内容について。これについては僕の中で重要な事項は一点に絞られる。
つまり「若者にありがちな、物事に対して一定しない批評眼」というようなもので、前述の映画の話にしても「きらい」と言っておきながらホールデンは日常的に映画館に足を運んでいる。友人を擁護するような事を言ったと思ったら、次の行から悪口の羅列になる、というような、全く安定感のない、身の回りに対する批判や、また愛情表現。このフワフワした感じと、境界の曖昧な二面性というのが、僕にとってのこの小説の「味わい」であった。
また伊丹十三に話を戻すと、彼も身の回りというか日本人に対する悪口をエッセイに書きまくっているのだが、この小説を下敷きに考えてみるとこれは「しかし私もまたその日本人なのである」という、つまり一方では批判対象に愛情を抱いているというか、批判対象と自分自身が完全には分化できていないというような、彼のいわば憎悪愛みたいなものが「ヨーロッパ退屈日記」であり「女たちよ!」といったエッセイ群だったのだなあ、ということが今さらながらに理解できた気がするのだ。
そんなわけで、久しぶりに非常に実りのある読書体験であった。こういう出会いがあるから読書は止められない。今さらこの歳になって、未読の名作を手に取る、というのは気恥ずかしいようなことではあるが、しかしやはりそこは手に取るべきなのだなあ、という事を思いましたよ。