2020年03月04日

生きていて初めて「存在するべきではない映画」だと感じた。

Pop is dead.
・本日のAmazonレビュー。あまりに強い憤りを感じたので、ここにも保存しておく。


・観なくていいです。というか、就職経験のない人にとっては「観てはいけない映画」だと思います。

・以下、Amazonへのレビュー

タイトル:若者は絶対に見てはいけない映画(個人的には「許されざる映画」)+すべからくの誤用

評価:★☆☆☆☆(つーかゼロ、つーかマイナス5だよ、本音では!)

本文:
 映画としてはそこそこ面白い。ある種の爽快感もある。

 この手の映画を観て私が真っ先に思うのは「とりあえず労基署に行け!」ということで、それ以外の感想はあまり持ち得なかったりするのだけれど、この作品については個人的に許せないものを感じたので、それについて書く。

 はっきり言って、この映画が発しているメッセージは「罪悪」でしかない。ブラック企業に勤めている人間を、そのブラック企業に縛り付けるための「呪文」のような、悪魔的で忌むべき映画だと感じた。

 「一体感」や「やりがい」という言葉や気持ちに付け込んで、不法に従業員を就労させるのは、いわゆるブラック企業の常套手段であるが、この映画ではあっさりそこに乗っかって「爽快な物語」にしてしまっている。脚本家や監督はそこに気付かなかったのだろうか?
 気付かなかったのなら無能だし、気付いたうえでこのような映画を作ったのであれば、彼らは明らかに「罪人」いや、それ以上の邪悪な存在「悪魔」である。

 この映画を観て「うちもブラックだけど、前向きに仕事をすれば『頑張れる』かも知れない」と考えて仕事を続け、結果として自殺に追い込まれる人が現れるかも知れない、という想像力はなかったのだろうか?

 それから、精神が崩壊した従業員が出てくるが、観た限りでは障碍者手帳を持っていてもおかしくない状態で、しかもその原因は仕事だと容易に推測できる。つまり「労働災害」による精神疾患である。その彼をさらに「腋臭(アポクリン腺の発達)」というキャラクターにして、映画の中で半ば笑いものにしている。
 映画の登場人物が笑いものにしているだけではない。私の見た限りでは、脚本家も監督も「言葉もロクに喋れない奴はどう扱っても良い(彼自身に反論の余地などない)」と考えて撮っているようにしか思えなかった。さらに、その彼に終盤「職場にいることを肯定するような台詞」を言わせている。
 「これ、ナチスが作ったプロパガンダ映画かよ?」と感じるほどの弱者切り捨て。しかも恐らくナチスでさえ表面的には「障碍者や、労働力のないものは不要だ!」というメッセージを公表していなかったはずだし、多分そんなプロパガンダ映画も制作していないだろう。

 私は日本国憲法の下で生きているので「表現の自由」を肯定しているし「言論封殺」を忌んでもいる。しかし、この映画に関しては「撮ってはいけない映画/存在すべきではない映画」だと感じた。たしかに、エンドロールの最後に社長の邪悪さが表現されている(森本レオというキャスティングが見事だとは認める)が、基本的に「ブラック企業に縛り付けられ、自由を奪われて不法就労させられてもいいことあるぜ!」というストーリーのベースがある以上、戦前のプロパガンダ映画以上に害悪だと考えざるを得ない。

 学歴が低いから何だってんだ。あれだけの知識と技術があれば、スマートフォンのアプリケーションを開発するなり、今では「自由に働ける」環境が作れる。そういうオプション(選択肢)について一切触れず「低学歴の人間はブラック企業で死ぬまで働け!」という、映画という形式を採った暴力である、この作品は。

 さらにエンディング曲がいきなり「すべからくの誤用」から始まって脱力した。大変失礼な言い方だが「ああ、全体的に知性の低い人が集まってできた映画なんだな」と思わざるを得ない。

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 いかなる悪書であっても焚書すべきではない、と考えている私ですが、この映画に関しては「消えて無くなれ」と思った。

 人間が自由になること、資本論で言うところの「自由意志で『階級』から逸脱できる」というオプションを示さずに「プロレタリアート(労働者階級)の再生産」つまり「労働者階級の子供は、所詮労働者階級にしか所属できない、というスパイラル」意訳すると「労働者階級に所属する人間は先祖代々、資本家に搾取され続ける」という事を、この映画は「真っ向から肯定」している。

 よく誤解をする人が居るけれど(私もそうだったけど)「搾取」というのは労働契約によって合法的に取り決められたもので、それ自体が悪いわけではない。契約外の、あるいは法を逸脱した「過剰な搾取」が問題なのである。

 佐藤優の本を読むと分かるが、現在の日本経済では「過剰な搾取」が横行している。大きく言うと「子供の学費(労働者を再生産するための)、自己に対する教育費、余暇」この三つについて、多くの企業は「自己責任」という名においてその負担を労働者自身に課している。
 「余暇(あるいは残業)」については、そこそこちゃんとした企業であれば法を順守しているだろうし、さらにましな会社なら「自己に対する教育費」要は社内研修を行ったりもしているだろう。

 しかし「子供の学費」については、ほとんどの企業が無関心なのではないか。最低限「労働者を再生産できる程度の援助(今の日本なら高校卒業だろう)」は企業がすべきだし、親の働きぶりによっては「労働者階級から抜け出せるほどの教育」を施せるようにするべきだと思う。

 以上は持論だが、この映画では薄給、超長時間労働という「非常に過酷な経済的搾取」を「団結・やりがい」の名のもとに「なかったことに」している。つまり結婚して子供が生まれても経済的に最低限の教育しか受けさせられないし、子供と触れ合い愛情を注ぎながら家庭内教育を行う時間もない、まさに「自分と同じ劣悪な環境でしか働くことのできないような人間の再生産」を美化した映画に、結果的にはなってしまっている。

 中卒だからなんだ、ニートだったからなんだ。そんな劣等感からブラック企業で「団結・やりがい」をスローガンにして生きてゆくのであれば、仕事なんかやめて生活保護でも受けた方がよっぽどマシだと思う。
 プログラミングが出来て、プロジェクトの進捗管理が出来れば、学歴なんか関係ない。クソみたいなスパイラルから抜け出す方法はいくつもあるはずだ。

 そういう「希望」を見せずに、ブラック企業で団結・やりがいに仕事の意味を見出すという「完全に間違った希望」を美談として描いているこの映画は、私が生きてきて初めて「存在するべきではない、葬り去るべき映画だ」と感じた作品である。

※ラストシーンで見せる森本レオの悪人ぶりが重要だと評価している人が居るが、彼が悪人なのは映画の最初の段階から分かっていることで、ラストシーンで何かが変わるわけではない。
 基本は「ブラック企業で精神論の下に搾取されまくっている人を肯定する(あるいは制作者からすれば『嘲笑している』)」映画である。

 この映画が発しているメッセージは正に、
Arbeit macht frei
 という、冗談にもならない虚構だ。

 私は、この映画を認めないし、赦さない。
posted by LSTY | Comment(0) | 映画 | このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーを含むはてなブックマーク
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