2021年04月03日

シーメール、ニューハーフ、男の娘に関する私的経験のまとめ

Pop is dead.
 今でこそ「futanari hentai」で画像検索すると、海外のサイトも含めて無数のヒットがある。しかし、
 日本において、シーメール、乃至は両性具有がポルノグラフのコンテンツとして一般的に知られたのはいつ頃からだろうか。

 私が記憶している限りでは90年代前半、エロ雑誌「熱烈投稿」における石野卓球による連載記事で紹介されているのが嚆矢である。

 もちろんそれまでも「両性具有」を好奇の目でとらえた歴史というものがあった。近世以前の絵画で半陰陽(両性具有)を扱ったものもある。ただ、それらは「ポルノ的なもの」だったのかどうかは、よく分からない。見世物的な「異形の者」という捉え方だったのかもしれない。

 で、卓球の連載記事だが「今、両性具有がアツい!」みたいな内容だった。彼が使っていた言葉は「アンドロギュヌス」であって、つまり「ふたなり」ではなかった。両性具有がポルノとしてポピュラーになったのは「ふたなり」という言葉の浸透以降だと思っている(根拠なし)のだけれど、当時まだ「ふたなり」は浸透していなかった。

 もちろん、和語としての「ふたなり(=半陰陽)」という言葉は既にあった。
 「ふたなり」とい古典落語があることからも、どんなに遅くとも明治・大正期にはある程度認識されていたものだろう。

 ただ、現代ポルノ史における伝播の中では「アンドロギュヌス」と「ふたなり」という二つの言葉は、いったん分断されていた。

 ところで、当時ポルノとして成立していた半陰陽のコンテンツは「エロ漫画」だった。ただホモセクシャルに準ずる性癖として、マーケットはかなり狭かったようだ。当時ふたなり物を描いていたエロ漫画家としては、TWILIGHT、水ようかん、佐野タカシ、The Amanoja9 あたりか。ただその後、このジャンルがポピュラーになってから参入した古参のエロ漫画家として、東京都、中ノ尾恵などが挙げられる。

 要は1990年代において「両性具有」は「絵空事(漫画)」としてのみ認知されていた、ということだ。

 一方でエロの幅広さと深さを象徴するように「リアルな両性具有」というか「ふたなり3D」=「実写映像」というコンテンツもあった。ゲイビデオの一角に、ひっそりと並んだそれらのビデオ(VHS)のジャケットを見ると「そこら辺のオジサンが、ヅラをかぶってセーラー服を着た写真」なのだった。セーラー服がボディコンになったりコスチュームは変われど、主体は「ヅラをかぶったそこら辺のオジサン」なのだった。

 それらは私にとって「ポルノとして売れるコンテンツ」とは思えない、雑で醜いものに感じられた。「このビデオ誰が買うの?親戚一同で買うの?」という感じで、私の様な好事家でも購入することのなかったジャンルである。
 ちなみに当時は、豊胸手術を受けた人のポルノ映像はオゥヴァ・グラウンドでは少数派だったように記憶する。

(※後日の話:よく考えてみると「女装癖」というのは隠して生きてもいける。だから両親(場合によっては配偶者)と死別してからやっとカミングアウトできて、女装した姿を公に示せる。よってモデルは中高年以上になってしまう。こういう事情があったのかもしれない。ただ、老いた男の女装になど、商業的価値はほぼなかったという事に変わりはない)

 そうは言いながら「シーメール(ニューハーフ)」の質は徐々に上がっていった。芸能界で言えば、はるな愛や佐藤かよを見れば分かるように「女に見える(女装した)男」が出てきた。

 ポルノの世界で「女に見えるトランスセクシャル女優」としては月野姫が嚆矢だったのではないか?金髪ギャル調メイクで、一見すると男には見えない。
 ただ声が太い、それから「ギャル調メイク」というのはつまり「すっぴんとの落差大」つまり極端に言えば「化粧が濃いので、素顔がどうであれ、でどうにでもなる」ということだ。
 「どうでもなる」と言い過ぎかもしれないが、実際に黒ギャルAV嬢だった泉麻那のすっぴん画像が流出し、それが、作品における(メイクした)顔と全然違ったという、ちょっとした事件もあった。ギャルメイクというのは事程左様に「加工の幅が広い」ということになる。

 月野姫に続いて出てきたのが、水朝美樹白石七海あたりか。女に見えるといえば見えるのだけれど、化粧の濃さや顔の輪郭に違和感がある。普通に街を歩いていたら「あれ、あの人、女装してるんじゃないか?」と薄々気付きそうなレベル
 その中でちょっと異色だったのがゆかという人で、シーメールの中では割と珍しいショートカットなのだが、薄めのメイクでも非常に女性的な顔立ちをしていた。
 その他、桜花舞という人も比較的薄めのメイクで女性っぽかったが、やはり残念ながら多少の違和感があった。

 それからしばらくして姫咲アゲハという黒ギャルシーメールが出てきた(前名はマリン)一般のAVでも「黒ギャル」というジャンルが確立しつつあった時代で、先述したような「非常に加工度の高いメイク」に対する違和感が薄まってきたこともあり、彼女は「普通に黒ギャル(女)にしか見えないTS(トランスセクシャル)」として貴重な存在だったと思う。
 一方で白ギャル系として愛沢寧々という人もいたが「敢えて黒ギャルに振った」姫咲アゲハの方がインパクトを持っていたように感じる。

 ここまでが大体、2000年から2010年頃までの大まかな流れだろうか。大雑把に言うと「オジサンにしか見えない女装」から「濃いメイクでギャルっぽいTS」への変遷というのがあった。

 で、2010年代初頭に潮目が変わった。きっかけは橘芹那の登場だったろうと思う。この人はギャル風メイクで、一見それまでのTSと同じ系統かと思われるのだが、元々がいわゆる「ギャル男」と見られ、メイクによる加工度が比較的低い。

 「草食系男子」という言葉が流行り、若い男性の中性化について取り沙汰される時期でもあった。そのような中で「性転換を最終目標としない」TS、つまり「女装男子」が徐々にメジャーになってきた。いわゆる「男の娘(おとこのこ)」というやつである。
 男の娘、というのは豊胸手術やホルモン投与もせず「体は男のままで女装する」主に若い男性を指すが、彼らの多くは「ヘテロセクシャル」である。恋愛対象は女性だが、自身も女装をし男性と性的関係を結ぶ(ただそこに恋愛感情はない)
 この先駆けとなるのが館林みはるだろうか。彼の恋愛対象については把握していないが、少なくとも手術やホルモン投与を経ずに「女(女装子)」としてポルノ界で受け入れられたのは彼が初めてのように記憶する。

 「男の娘の登場」とは何だったのか。それは「おっぱいなんか要らない」という、男性側の欲望変化なのではないだろうか。
 これに関しては、アメリカのポルノビデオを見ると分かるような気がする。80〜90年代には極端な豊胸手術をしたポルノスターが大勢居たが、今はごく少ない。大きければいいってもんじゃない、とアメリカ人ですら気が付いたわけである。いわんや、歴史的に「巨乳=馬鹿」という偏見がはびこっていた日本においてをや、という話である。

 実は日本でも、以前は「AVに出る女性はDカップ以上(個人的な感覚)」というイメージがあったが、今はAカップをチャームポイントとしたあべみかこといった女優も居る。「胸が小さい」ということが資本的価値を持つようになったのである。
 女性が出演するポルノ作品でも「おっぱいは大きい方が良い」という従前の常識が崩れる中で「おっぱいがなくても」極論すれば「男性であっても」可愛ければいい!という考え方が広まった可能性はある。

 ここで突然、私自身のセクシャリティについて書いておくと、小学校低学年からタカラヅカを観、高学年から歌舞伎を日常的に見ていた事から、好意の対象として「男装した女」や「女装した男」を見ることについては全く抵抗がなかった。特に前者に関しては。
 なにしろ「生まれて最初に好きになった有名人」が、1980年代の大地真央だったくらいなので、むしろ幼少期から筋金入りの性倒錯者だったと言ってもいい。
 一方で「女装した男」については抵抗は感じないが左程の興味はなかったかもしれない、それこそエロ漫画の世界にふたなりが登場するまで「美しい女装男子」を見たことがない、というのが主な理由になるだろう。歌舞伎の世界では10代・20代の頃の中村時蔵を見られていないし、もちろん美しい頃の歌右衛門も見たことがない。
 その後、その方面のポルノに興味を抱き続けたのも「ポルノはファンタジーでなければいけない」という考えと、好奇心から「奇異なものが見たい」という欲求が強かったせいだろう。この「奇異なもの」への強い関心は、後に黒ギャルや刺青、ピアッシングなどに興味を持つことにつながっている。

 で、話は80年代から飛んで2010年代になるが私の中の性的認識に大きな影響を与えたのが「中村米吉」という歌舞伎の女形である。初めて舞台で見た時に、掛け値なしに「こんな美しい女形役者がいたのか!」と驚いた。あまりに驚いたのでその月、もう一度彼を見るために劇場を訪れたほどである。
 さらにそこから派生して、SNSで「米吉に似ている」と紹介された、元B1A4の韓国アイドル「バロ(바로)」ことチャンソンウ(차선우)を知ってしまった事で「男でも女でも、可愛ければいいじゃねえか!」と考えるに至り、私は「『かわいい』原理主義者」つまり「性別関係なくねえか?」という思想に侵されてゆくのであった……

 と前々段までの、豊胸手術やホルモン投与を受けない「男の娘」 がポルノの世界において市民権を得てゆく時期と、私自身の「かわいければ性別関係ないだろ!思想」が過激化・原理主義化する時期が偶然同じ時期にあった。
 必然か偶然化はおいて、そういう歴史的な重なりがあった。

 そういう中で「男の娘パトロール」という名の「ポルノサイト検索巡回」を行っているうちにA(仮名)という逸材を見つけた。
 これは?と思ってDVDを入手してみると当初の「これは?」は「こ、こここ、こ、こーれは!」になった。
 この子、わりとナチュラルなメイク(後述)なのに女にしか見えないぞ!それ以前に米吉やバロのタレ目顔系統で、俺の好みドストライクじゃねえか!と、まあすでに先鋭化した思想にはまり込んでいた私は「はい、女装子ではこの子が最高峰」と断定した。株ビジネスでいうところの「利益確定」というやつである。人の好みの違いはあろうが、私個人としては、これ以上の女装男子は数十年出ないだろうという見立てである。

 彼女は引退しているので細かくは書かないが、デビュー時に5作品残し、その後数年引退状態にあったが突然復帰(「女装美少年」という同シリーズに2回出演したのは彼女だけではないか?)

 で、復帰作のオープニングに流れる字幕「むかし むかし みんなに愛された女装子がいました」にヘッドバンギング並250BPMのウナヅキをしてしまった(言い過ぎです、嘘でした)しかし復帰時の感動は本当にそれくらい大きかった。
 復帰第1作も素晴らしいが、復帰第2作(ボクこう見えて以下略)は、彼女がメイクに頼りすぎないナチュラルボーンな女装子であるという事実を示していて、本当に個人的にではあるが金字塔みたいなもんだよな、と思う。

 その後の新作リリースはなく、今後も期待薄ではあるが、なんか「歴史に立ち会った感」ある。

(加筆修正するかもしれないが一旦おわり)

posted by LSTY | Comment(0) | アレな話 | このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーを含むはてなブックマーク
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