2005年08月02日

ブログ上の議論が不毛な結果に終わりがちな理由

Pop is dead.
DOB_devil(byTakashiMurakami) Web上で、特にブログ上で行われる議論は、なぜこうも不毛な結果に終わってしまうのか。
 この事について僕は一定の考えを持っているのですが、記事にするにはあまりに簡潔すぎて書いていなかったのです。でもTAKOさんそこらへんの記事を書いていたので、便乗してみます。

 TAKOさんはWeb上の議論を、ディベートとしてくくっているようです。まあ、議論を趣味としている人間にとってはそういうものだと思うのです。それがいかんとも思わないのですが。
 しかし、議論というものに親しまない人間と議論するとき、ディベート的な手法を用いると、悲劇的な結果に終わる事が多い。というかほぼ100%は「日本語が通じない」とか「荒らし」とか「厨」とか言われて終わりなんじゃなかろうか、と思うのです。

 なんでかというと、Web上で巻き起こる議論の出発点は所詮「好き嫌い」でしかないからだと思うのですよ。

 これが結論です。「好き嫌い」なの、全部。
 ある考え方や物事が「好き」な人と「嫌い」な人との議論ばかりですよ、ある程度高く評価されているブログでも、そういう不毛な喧嘩が多いと感じます。
 「こういうのが嫌い」と言ったAさんに対して、「そういうのが好き」なBさんが、「そういう事言うAが嫌い」と議論つーか喧嘩を吹っかける、そういう図式。

 好き嫌いの衝突なんて意味がないんですよ。

 Aさんの「こういうのが嫌い」という気持ちと、Bさんの「そういう事言うAが嫌い」という気持ちがベースにある以上、その言い合いに建設的な結末など望めるわけがない。
 正しいか正しくないか、じゃないんですよ、「好き嫌い」なの。それはいわゆる「理論」では解決できないのです。
 どこかのブログについたコメントで「議論に感情を持ち込んではいけない」という言葉を見かけたけれど、そんな風に思っているから議論が不毛なものに終わるんですよ。出発点が感情なのに、そこに感情を持ち込むな、というのはおかしい。 

 好き嫌いって、議論の結果で瞬間的に変わるものではないのですよ。
 論破されたからって、奥さん、それを好きになるんですか?!(みのもんた風に)

 Aさんが「こういうの嫌い」だとしたら、Bさんにできるのは「そういうのにはこんな楽しみ方や利点があるんですよ」っていう、Aさんが知らない「そういうのの良さ」を提示するしかない。
 その意見が、おそらくは長い時間をかけてAさんに作用する。ある日、Aさんは「ああ、そういえば昔、Bさんが言ってた事がわかってきたよ」と思う。そうすればしめたものです。
 何度も書いてるような気もしますが、重要なのは「こういう考え方もありますよ」っていう考え方を、いかに相手に伝わりやすく紹介するか。これに尽きるのではないでしょうか。

 「そんなの議論じゃない」という人も多いだろうけれど、じゃあ議論なんてなんぼのもんかと思うわけですよ。プロセスを楽しむゲームとしてやるのならよいけれど(僕も実はそういうのは結構好きですけどね)コミュニケーションの目的を「相互に受容しあう事」に置いた場合、「正しい議論を完遂する事」なんて屁みたいなもんですよ。
 手法としていかに正しくとも、「炎上」して物別れになったら結果はゼロなわけですからね。

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この記事へのコメント
あ。これ読んだら書くこと無くなってしまった…。
特に最終段は全面的に合意。

基本的に、私は議論は「負けに行く」ことが多いです。
Posted by Lefty at 2005年08月02日 18:40
論議が相互理解に尽きるのは当然ですが、論議して簡単にお互いの考え方を理解し合う事は難しく、大抵は意見の強要合戦に陥りがちになります。そもそもお互いの意見を言い合ってお互い理解しあえるなら論議にはならないはずです。
単純な論議ならどちらかが「まぁ、そこまで相手の意見を否定する意味も無いし…」といった感じで一応の結末を得る事もあります。しかしこれが国家間の論議…たとえば「竹島はどちらの領土か?」となると、幾ら歴史的事実を並べても論議に明快な答が出るはずはありません。論とは別に立場とか都合とかがあるからです。
国際問題と一般人の論議は全然別に思えるかもしれませんが、一般の論議でも「安々と相手に言い負かされたら自分の立場が」とか「相手に自分の意見が伝わらないのでは自分の意思伝達能力に問題がある事になってしまう」などといった感じの立場や都合で反論する事もあるでしょう。

一方、論議する事そのものが目的という論議もあります。お互いに意見を無尽蔵に出し合い、お互いの思慮の範疇に無かった回答を模索する、または論議が広がっていく事が主目的の論議です。答より論じて考える事が重要って感じでしょうか。

先述の国際問題のような場合のように、答を出さない論議…というと語弊がありますが、早々に答を出さず、論議に時間を費やす事がお互いの妥協点となる論議もあります。

…と、ここまでの内容は、あるアニメ監督のHPでの意見を流し読みしてうろ覚えの内容を書き連ねてみたのですが、読み違いを過分に含んでいるのであまり鵜呑みにしないで下さい(笑)。

また「好きか嫌いか」に関して…本当に「好き」な人ってどんな否定意見でも意に介さないんですよね。「否定するのはわかるけど、俺はコレなんだよねー」みたいな。否定されて怒り出す人はそこまで自信を持っていない人が多いようです。
Posted by トオリスガリ at 2005年08月03日 03:28
■Leftyさま
>基本的に、私は議論は「負けに行く」ことが多いです。

 男でそういう人って珍しいと思うのです。というかLeftyさんは大人ですなあ。僕はこういう風にもっともらしい事を書いていても、根は子供ですから。
Posted by LSTY at 2005年08月04日 10:41
■トオリスガリさま
 長文コメントありがとうございます、と思ったら受け売りかよ!(笑)
 立場、というのはですね、実際の議論ならまさにその通りだと思うのですが、僕はあまりblog上でそういう事考えてもなあ、と思うわけです。
 匿名だし、いざとなればblog閉鎖もできる中で、立場に固執することで普通の議論ができない、なんてのはなあ、と。これは人によって意見の分かれるところでしょうが。

>本当に「好き」な人ってどんな否定意見でも意に介さないんですよね。

 少なくとも僕の場合、そうですね。広末涼子の悪口いわれても何とも思わない(笑)
 でも、好きな彼女の悪口言われたら別だなあ。怒るというか、悲しくなりますね。「好きなもの」の中にもいろいろあるのですね。
Posted by LSTY at 2005年08月04日 10:51
こんばんは。

>Aさんが「こういうの嫌い」だとしたら、Bさんにできるのは「そういうのにはこんな楽しみ方や利点があるんですよ」っていう、Aさんが知らない「そういうのの良さ」を提示するしかない。

それでも反応が違うことは殆どないですけどね。
本質が「嫌い」だとしても、言い分は「ダメ」「良くない」ということが多く、良さを提示することはAさんの否定ってことになってしまうので。
Posted by ピーちゃ♪ at 2005年08月07日 01:14
■ピーちゃ♪さま
>それでも反応が違うことは殆どないですけどね。

 それは当然です。少なくとも僕は、その場では否定します。でも、表面上否定しても実際は気にかかって、次回以降は否定的な先入観を除いて接してみようか、とか思うわけです。
 本文でもふれましたが、好きが嫌いに転じるためには、それなりの時間が必要だと思っています。
Posted by LSTY at 2005年08月08日 15:39
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