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小学生の頃、母親に連れられてデパートの物産展に行った。
どこの地方の物産展だったか、忘れたけれど。
飲食コーナーが設置されている。ベニヤ板で仕切られた簡易型の「お店」があって、カウンターで食べるような。
ああいう、オママゴトのようなお店で特別な物を食べるというのは、子供にとってはとても嬉しい物だ。
そんな中に、団子屋さんの飲食コーナーがあった。カウンターに、女の人が座って串団子を食べていた。眼鏡をかけた小太りの女の人。20代半ばだろうか、年は若いが、なにか全く色気のない女の人で、彼氏は絶対いないんだろうな、というイメージ。その人が、荷物を抱えながら、無表情に団子を食べている。
ものすごく余計なお世話なのだけれど、一人で物産展に来て、寂しいんだろうなあ、でも、おいしい団子が食べられたね、という気持ち。すごい「孤独」のオーラと、無表情でありながらもおいしい団子を食べている「静かな幸せ」オーラを感じた。
今でもたまに、その時の映像を思い出す。
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これも確か小学生の頃、両親と芝居を見に行った。劇場の周りには列車が並んでいて、それがレストランになっていた。「食堂車」のような雰囲気のそのレストランは楽しかった。確か父親を待つ間に、母親と二人で食事をした。
思えば当時は「相席」というのは当たり前のことだった。そのレストランも混雑していて、相席を頼まれた。私と母親の前に、老紳士が座った。
その人は正に「老紳士」と呼ぶにふさわしいお爺さんで、長身やせ形、白髪を整え、真っ白で立派な口髭を蓄えていた。カイゼル髭と言うほどではないが、それを思わせるような立派な髭だった。
一人で芝居を見に来たのだろうか。老人が一人で「キャッツ」を?家族はいないのだろうか。
その老人は、カレーライスを食べた。背筋を伸ばして、行儀良くスプーンを口に運ぶ。髭がとても邪魔そうに見えた。髭を気にしながらも、しかし汚すことなく、ゆっくりとカレーライスを食べるお爺さん。
風格を感じながらも「このお爺さん、寂しくないのかなあ」としきりに思い、僕は老人をチラチラ見た。多分、彼は視線に気付いていたはずだが、気付かない振りをして、同じペースでカレーを食べていた。
ああいうお爺さんになりたいような気もする。
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もう一つは、実際に見たわけではない。なんとなく自分で思い描くシチュエーション。
母親と、幼い子供が食事をしている。子供は幼く、しかし自分で匙を使ってテーブルと皿にしがみつくようにご飯を食べている。
笑顔の子供が、母親の顔を見て言う。
「おいしいね。」
こういうシチュエーションを思い描くだけで、何故かは分からないけど僕は泣きそうになる。理由は全く分からない。多分そこに、強い愛を感じるからだと思う。
こういう三つの食事風景。この三つをよく思い出しては、何か言葉にならない感情を持つ。
最初の二つの話なんて言うのは、全く「余計なお世話」だと思うのだけれど、子供心に「この人は寂しくないのかなあ」なんてことを随分考えた物だ。そのおかげで、いまだに僕は一人で外食するのが苦手でいる。
自分が寂しいからではなくて、周りから「あの人、一人で食事をして寂しいんじゃないかな」と思われてるんじゃないかという気持ちが、たまらない。ものすごく自意識過剰だけど、そういうことを考えてしまう。だから、一人で食事する時には周りに目を合わせないように、本を読んでいる。
3つめのシチュエーションでは、父親にも「おいしいね」って話し掛けて欲しいような。
そのあたりと寂しいと感じることに関係があるような、ないような。勝手な思い込みですが。
なんだか心理学の分野に入ってきそうですね。
心理分析してもらいたい気分になってきました。
わかる。
多くの視線の前で1人で食べるのってなんか居心地悪いよね。本当に1人でいるのと違うもんな。
ホントに1人でいるときは、それはそれで楽しめるものなんだけど。
誰かがいるってのは、ひとりでいるより孤独感を強めるシチュエーションなのかもしれない。
それでもおいしいものはおいしいんだよなぁ(^_^;)
それと、小さい頃は父親の存在って在って無いようなものですよ。父親は社会性の象徴だから子供にとって意味を持ち始めるのはお友達と遊ぶようになってからです。ものすごく小さな子供ってまだ二元的にしか関係を捉えられないんだよね。「うち」と「そと」が認識できるようになってから「おとうさん」が初めて意味を持ち始める。
うちの夫なんて娘からみたらまだ「いっしょにすんでるおともだち」ですよ。(^_^;)
一人で食事 → 寂しそう
という発想は、考えてみたこともありませんでした。
3世代同居の家庭に育ったせいかどうかわかりませんが、
一人で食事する=好きなものを好きなだけ、自分のペースで食べられる
というのは、僕にとって、ささやかな贅沢なんですよ。
マフマフさんが書いてるとおり、僕はそれは関係ないと思うんですよね。家庭にもよるんだろうけど、うちは完全に「男は会社で働いて、女は家事」という家だったんで、父親がいなくて寂しいと思ったことはないし。
ただ、逆に食事の時は必ず母親はいたので、「一人で食事をするというのがどういうことか」という実感はなかったんでしょうね。親が共働きで、普段も一人で食事をしていたら、こういう妄想は抱かなかったかも知れない。
因みに、僕がもしも父親になったとして、子供に「おいしいね」と言われたら、たぶん泣きます(笑)
一人で食事する場合には、カウンターじゃなきゃイヤなんですよね。何より視線に困るから。
グリーナウェイの「コックと泥棒〜」の様に、本を読みながらでなくちゃ、テーブル席は辛い。そのために、車には文庫本を常備してます。
一人でいること、一人で行動することは、逆に好きなんだよなあ、僕は。何でもかんでも群れたがる人は好きじゃないんだけど、食事だけは、二人以上でしたい。食事だけですね、今のところ。
なるほど。考えたこともない人もいるのね。周りの人にも訊いてみたくなってきた。
私は一人で食事をするのは好きです。
周囲から「寂しい人」と見られることは、あるのだろうと思いますけれど。
自分のペースで食べられるというのが、とても心地良いのです。ゆっくり食べる方なので、誰かと食事をすると食べるペースに気を使ってしまうのです。
そして、最後にお茶やコーヒーを飲みながら、ぼんやりとするときが何よりも幸せな時間です。
こんにちは。
自分を基点に考えるか、他人を基点に考えるかなんですね、多分。
僕は、他人を観察するのが好きなので、逆に一人でいる時には「他人からどう見えているか」を過度に意識してしまうのかも知れません。