・その間、以前買ってそのままだった対訳付きの新古今和歌集を拾い読みする。
・その結果、私は「和歌が分からない人間」だということがよく分かった。
・たしかに、式子内親王の歌なんかには面白みを感じる。しかし所詮、言葉の組合せの技巧に魅力を感じるだけで、いわゆ「歌の心」というものに全く魅力を感じない。
これや見し昔住みけむ跡ならむよもぎが露に月のかかれる 西行・ふーん、そうですか。で、何が良いの?という感じ。
・「分からない」のです、その心が。本歌取りなんてただの教養のひけらかしだし、内輪受けに過ぎないとか思ってしまう。掛詞なんて駄洒落だし。
・つまり、私は所詮卑俗な「散文肌」の人間で、雅やかな詩なんていう物とは縁がないのだということが、つくづく分かった。
・川柳は好きなんだけど。そういえば歌舞伎は好きだけど能に興味がないというのもそういう様な事で、公家や武家の文化というものが僕には分からない。市井の文学や芸能しか理解できないのだとか思う。
・ミュージカル好きだけどオペラは分からないとか。ここら辺は実はコンプレックスなんですが、まあこの年になって敢えて無理して近づく必要もないかな、と思えてきた。
・しかしなあ、式子内親王や俊成・定家、あるいは実朝あたりには興味があるなあ。和歌を、教養ではなく、単純に今読んでかっこいいという方向から紹介した本があればと思うが、そういうものはあまり見かけない。
・日本において、というか海外でもそうかも知れないけれど、文化や芸術は「勉強」するもので「教養」として知るべき物、という認識が強すぎる。かっこいいから、楽しいから文化や芸術、ことに古典に接するという機会が少なすぎる。これはどうもイヤな感じだ。
古今集・新古今集
古典の教養化に関しては海外でもそうですよ。もっと正確にいえば「嗜むもの」って感じですかね。「勉強」と「楽む」の中間くらい。
どの社会的クラスに属しているかによって違うけど、アッパーミドル以上はそんな感じです。やっぱりこういうのは親が子供に伝えないとどうしようもないみたいです……って長くなったからブログで書くかも。
源氏物語だと、どういうシチュエーションで、どういう紙に書いたか(扇だとか薄紙だとか)ということが書いてあって、面白かったりする。和歌というとラブレターを思い浮かべるんですが、駄洒落大会なんかもあったのかなと勝手に想像しています。
私は「文車日記」で古典に興味を持ったので、田辺聖子さんが新古今和歌集についての物語を書いたら面白そうだなあと思います。
うちの嫁はミュージカルが嫌いで、以前マドンナの「エビータ」を家で見ていたら「不快だから消してくれ」と言われました。
しかし例外的に「WIZ」と「オケピ」は好きなようです。WIZは僕も大好きな映画で、あれはミュージカル映画というよりもモータウンの長編プロモビデオ。
>親が子供に伝えないとどうしようもないみたいです
そういう物ですよね。単純に親の影響というだけでなく、ある物を受容する「素地」があるかどうかっていうのは10代に決まるような気がするし。
>どういうシチュエーションで、どういう紙に書いたか(扇だとか薄紙だとか)ということが書いてあって、面白かったりする。
大岡信の解説によると、藤原定家という人はそういうのを否定したらしいのですね。儀礼としての和歌を、芸術たらしめんとした、という事なのかと思います。そうなるとちょっと興味がある。wikipediaの源実朝の項に、正岡子規による評が載ってるんですが、ああいうのを読むと興味が湧きますね。
啄木って貧乏くさくて嫌いなんですけど、啄木の日記というのは面白いらしい。子規も早死にしたんで悲壮なイメージがあるんですけど、散文を少し読んだ感じでは面白い人のようですね。
とか考えていると、それなりに和歌にも興味が出てきました。ただやっぱり僕が好きなのは多分「万葉集」とは切り離された歌なんだと思います。
僕は田辺聖子読んだことないんですよ。どういうわけか機会に恵まれない。
仮に、「ベストヒット・カマクラ!!」みたいなCDがあって、当時のヒット曲満載だったとしても、
その当時のほかのコンテクストを知ってる人が聴くのと、それを知らないで聴くのとでは、
面白さが(というか「あー、なつかしいねー」的なノリが)半減しちゃうっていうか。
しかも、モンカ省推薦盤みたいなw
その意味では、「歌合」から入るのがお勧めですね。
歴史に残る名勝負。
プライドをかけた熱い戦いですし。
法廷ものとかお好きな人には判定の妙も楽しめますし。